六戸の伝説

記事番号: 1-1969

公開日 2022年05月11日

 町の伝説や言い伝えを紹介します。(出典:六戸町史)
 
  • 紹介一覧
    • センダイ坊供養碑
    • 橘公塚(きっこうづか)
    • 権現沢(ごんげんざわ)
    • 七百のフゴミ
    • 上吉田と下吉田の境界線
    • 昔ばなし(川下の正直おじいさん)
    • 赤田の一文銭
    • 長慶天皇潜幸伝説
    • 長谷のいたこ塚
    • 通目木(づめき)の檜
    • 影沼
 

センダイ坊供養碑

 語り部といえば、琵琶を片手に『平家物語』を語り歩く琵琶法師を連想する。その流れは、芸能における話芸・話術に継承され、さまざまな形で今日に至っている。たとえば、講談師、浪花節、漫才、落語、タレントなどのジャンルがそれであろう。しかし、本来の意味での語り部は、皆無に等しい状態である。それは、テレビなどによるマスメディアの発達により、民間伝承や口承文化が失われたためであり、特に民話の伝承は難しいものとなった。

 六戸には、族の語り部が定期的にやって来たという伝承が残っている。その語り部のひとり、センダイ坊の供養碑が吉田地区の坂ノ下に建っている。この場所は、かつての旧道で、往来が激しく、五戸代官所への近道でもあった。そのこんもりとした森の頂に、高さ60センチメートルほどの角柱塔が建っている。しかし、碑の上部が欠損し、風化が激しく、刻銘も見ただけでは判読できない。そこで、拓本をとってみたところ、「〔欠損〕天〔欠損〕新蔵坂春星位〔欠損〕九日」と刻まれているのが分かった。しかし、上部の欠損部分に建立年代が刻まれていたようで、まことに残念である。碑文によると、春の星空の下で没し、新蔵坂とはセンダイ坊が倒れたこの坂のことを表しているようにも思える。

 仙台からやって来たので、通称センダイ坊で、本名はだれも分からず、その坂をセンダイ坂とも呼んだ。彼は、村人を集めては語り部をした旅芸人のボサマ(座頭)で、弟子に三味線をひかせ、自分は扇子を持って演台をたたき、拍子をとりながら聴衆を引きつけたという。仙台領の座頭には、奥浄瑠璃(御国浄瑠璃)が伝承されていたので、おそらくその系統の芸人と思われる。

 また、東北女子大学教授の森山泰太郎は、『日本の民俗』(第一法規出版)で仙台坊を紹介しており、彼は大正末期の人物で、毎年のように下北の易国間に来ては学校の講堂で語った名人であったと記している。六戸のセンダイ妨供養碑は江戸期のものと思われるので、六戸のほかにもセンダイ坊と呼ばれた芸人が各地にみられたということになる。

 センダイ坊は、六戸で語り部をしている途中、行き倒れとなったため、その弟子が供養碑を建立したという。

 更に、碑の隣には、伝説の大木がそびえている。これはセンダイ坊が杖として使っていた檜を、逆さに挿したところ、枝が伸び、大木となったため、これを「逆さ檜」と呼んでいる。今日、その逆さ檜は倒れ、幹しか残っておらず、隣にその実が生長して大樹となった樹齢200年はありそうな檜が立っている。

 昭和20年ごろまで、地元の子どもたちが、この小山を遊び場としており、碑からとんだり、跳ねたり、倒したりしていたが、道路拡張工事の際、碑が二つに割れ、上部が土中に埋まり、紛失してしまったという。その後、昭和30年ごろの国土調査の際、吉田嘉巳の所有地ということがはっきりしたため、吉田家では、大切に供養している。

 

橘公塚(きっこうづか)

 舘野公園入り口に鎮座する熊野神社は、出雲大社様式の堂々たる社殿である。その社殿に向かって左側の一角に、金の鳥居が建ち、ブロックで囲まれた聖地がある。囲いの中は、1.5メートル四方の土まんじゅうの塚が築かれ、その上に50センチメートルほどの卵形の石が安置されている。石は苔むして、何も刻まれていないが、昔から「橘公塚」と呼んでいる。当地方に伝わる『六戸郡姉戸沼崎観世音縁起』による次のような物語が展開されている。

 白雉5年(654年)のころ、橘中納言道忠という公家が、世をはかなんで東北行脚の旅へ出た。そして、小川原湖の倉内付近に草庵を営み、自ら観音像を彫刻して、読経三昧の日々を送っていたという。そのころ、都には道忠公の娘、玉世・勝世という姉妹がいた。姉妹は、父恋しさに、進藤織部・駒沢左京之進という家来を従え、小川原湖へやって来た。ところが、すでに父は亡く、悲しさのあまり、玉世姫は姉沼へ、勝世姫は小川原湖へ入水し、沼の主となったという。したがって、今日の姉沼は玉世姫のことを指し、小川原湖は勝世姫で、妹沼とも呼んでいる。そして、進藤・駒沢らは、彼女たちを供養するため、この地に住みついたのである。

 その後、道忠公の奥方が、織笠兵部・根井正近らの家来を引き連れて小川原湖へやって来た。奥方は道忠公の草庵跡へ海向山専念寺という寺院を建立し、尼となり、現在の天ケ森(尼ケ森)に住みついた。そのため、小川原湖近辺には、この物語に登場する進藤(新堂)・駒沢・織笠・根井ら、家来たちの名が、地名として今日も残っている。

 ところが、その長い歴史の間には、寺へ賊が入ることもあった。ある時、住職は、難を避けようとして、道忠公が彫った観音像を背負い、近くの湖沼へ入水した。現在、その沼を仏沼と呼んでいる。

 その後、村人によって2体の観音像が仏沼から引き揚げられ、一体が現在、五戸の専念寺へ、もう一体は六戸の民家(杉山家)へ納められるようになったという。

 その石は道忠公が、都を思い出して、舘野のさつき沼の霊水を使い、石へ思いのままを書きつけたところ、その文字が都の屋敷の庭石に浮き出たという。それを見た奥方が逆に、庭石へ字を書いたところ、橘公塚の石へ文字が浮き出てきたという逸話も橘公塚伝説として残っている。

 今日でいうレタックスのような役割を果たした石であるが、昔の人々が小川原湖を取り巻く夢と信仰に根ざしてこのような縁起が書きあげられたのであろう。史実ではないとして捨ててしまわず、伝承も意義あるものとして大切にしなくてはならない。

 

権現沢(ごんげんざわ)

 明治の中ごろのこと。平地は馬の放牧地と畑が多く、ヒエ・アワ・大豆などが栽培され、山には草木がたくさんあった。現在の岡沼と七百の境は、木の実やイモがたくさん採集できたという。

 そこへ、飛騨国(岐阜県北部)から、仏師がやってきて、沖山・七百・岡沼・金矢より流れてくる霊泉を飲もうとしたところ、菩薩さま(観音さまと思われる)が現れ、「3体の権現さまを彫り、祀るように」とお告げを下して姿を消した。そこで仏師は、さっそく、その泉でミソギ(身を清めること〕をし、その山に雄々しく茂っている古木を切り倒し、寝食を忘れ、お告げどおりに3体の権現さまを彫りあげた。

 3体の権現さまのうち、1体は掘切の本家に安置し、1体は根井(三沢市、当時は六戸通り)熊野神社に奉納した。ところが、堀切の本家では、祭りができず、粗末になるというので、折茂集落に護摩堂を建て、祭祀した。その後、折茂大火があり、護摩堂も焼失してしまったが、なぜか権現さまのみが焼け残り、舘野の熊野神社に移して祀った。したがって、舘野熊野神社の権現さまは、根井の権現さまの姉貴分だといわれている。

 一方、仏師は、残りの1体の権現さまを持参して、故郷の飛騨国へ持ち帰り、産土様に奉納し、今日でもその権現さまが大切に祀られているという。そして、仏師は国元で人々に尊敬されながら幸せに暮らしたという。

 数年前まで、その場所には、権現さまを彫ったというコッパ(木層)が残っていたという。村人たちは、その地を「権現沢」と名付け、以来今日に至っている。一説によると、この仏師は近江国坂本の甚六という人物だったともいう。

 

七百のフゴミ

 七百と高清水の境の沢を「フゴミ」と呼んでいる。昔、昔、七百に仲が良い爺さまと婆さまが住んでいた。畑にはアワを作付けしていたので、秋の取り入れのときは大変だった。ところが、爺さまは一人で毎日、たくさんのアワを刈り取ってくるのであった。婆さまは、あんまりたくさん爺さまが刈り取ってくるので不思議に思い、「いったいなんぼ刈ったのだ」と聞くと、「一反から七百しま刈った」といった。あまり多いので婆さまは不思議に思い、畑に行ってみると、なんと、爺さまは若くて美しい女と仲良く刈っているではないか。婆さまはしっとのあまり、血が頭にのぼり、その女を激しくののしった。

 実は、その女は山の神で、爺さまに手伝って七百しまのアワを取っていたのだった。婆さまにののしられた山の神は怒って、その七百しまのアワをみな沢目に踏み込んでしまった。

 高清水の「富庫美(ふごみ)」という地名は、踏み込んでしまった場所をいい、アワのあった場所を「七百」と呼ぶようになったという。

 

上吉田と下吉田の境界線

 昔、昔、上吉田と下吉田の境界線がはっきりせず、お互い争っていた。その前までは、吉田村という集落であったが、吉田村が大きくなりすぎて上と下に分けたのであった。そこで、境界線をはっきりさせるために、それぞれの代表が集まり、その方法を話し合った。結局、お互い、朝、時間を決めて相手の村に向かって牛を歩かせ、出会った場所を境界線にすることになった。

 さて、境堺線を決定する当日、下吉田の代表は、出発時間を間違えて、遅れて出発。出発してまもなく上吉田の牛と出会ってしまった。その場所が長谷の辺りで、本来、長谷は下吉田地区であったが上吉田に編入され、今日に至っているという。

 

昔ばなし(川下の正直おじいさん)

 昔、昔、相坂川の川上に意地悪なおじいさんとおばあさんが、そして川下には正直なおじいさんとおばあさんが住んでいました。

 ある日、川上のおじいさんと川下のおじいさんは、カゴを持って川へ、さかなをとりにいきました。ところが、さかなが全然とれなかった川上のおじいさんは、こっそりと川下のおじいさんのカゴから、さかなをとっては知らんぷりをして帰りました。

 川下のおじいさんは、そのことを知っていましたが、さかなが全然とれなかった川上のおじいさんがかわいそうに思い、何も言いませんでした。

 しばらくして、川下のおじいさんが、いつものように、さかなとりをしてカゴを引き上げてみると、さかなの代わりに子犬が一匹入っていました。よろこんだ川下のおじいさんは、「シロ」と名付けて大切に育てました。

 子犬だったシロもだんだん大きくなり、とうとう、川下のおじいさんを乗せて柴山峠の山に薪をとりに行くほどになりました。シロが「あっちの山の兎ッコこ〜い。こっちの山の兎ッコこ〜い。」とほえると、あっちの山からもこっちの山からもたくさんの兎がピョンピョン跳んできます。川下のおじいさんとおばあさんは兎汁にして食べました。

 この話を聞いて、川上の意地悪なおじいさんは嫌がるシロの背中に無理やり乗って、山へ行きました。すると、シロは「あっちの山のアブ(蜂)ッコこ〜い。こっちの山のアブッコこ〜い。」とほえるではありませんか。

 たちまち真ッ黒にかたまったアブの群れが飛んできて川上のおじいさんは、刺されてしまいました。これを知った川上のおばあさんは、怒ってシロを相坂川に沈め、おぼれさせて殺し、畑に埋めました。このことから、この一帯を犬が落ちた川(瀬)で「犬落瀬」と呼ぶようになったということです。

 このことを知った川下のおじいさんほ、悲しんで、シロが埋められた畑に行くと、一本の木が生えていました。川下のおじいさんは、それを切って、なにげなく振ってみると、米や黄金がザクザクと出てきます。この話を聞いて、川上のおじいさんは、自分もまねをしてみようと、川下のおじいさんからその木を借りてきて振ってみると、今度は汚いものがドンドン出てきました。怒った川上のおじいさんは、その木を焼いてしまいました。

 川下のおじいさんは、かわいいシロのかたみに、その灰をもらってきました。ちょうどその時、鶴喰のあたりで鶴が空を飛んでいたので、その鶴の群れにむかって「鶴の目に入れ、鶴の目に入れ」と言って灰を投げると、鶴はバタバタと落ちてきました。川下のおじいさんとおばあさんは鶴鍋にして食べました。それ以来この一帯を「鶴喰」と呼ぶようになったということです。

 そこで、また、川上のおじいさんは、自分もまねをしてみようと、川下のおじいさんからその灰を借りてきて、鶴喰のモクゲンジの大木の枝に登り、灰をまいてみると、灰が目のなかに入って、木の下で見ていた川上のおばあさんの上に落ちてきて、ふたりとも大けがをしてしまいました。それからは、川上のおじいさんとおばあさんは意地悪をしなくなったということです。
どっとはらい。

 

赤田の一文銭

 昔、赤田集落の木戸口松三郎宅と種市商店との間に竹やぶがあった。ところが、その場所に道路を通すことになり、竹を伐採し、土を掘ったところ、中から2升入れぐらいのかめが2個出てきた。このかめは「殿様が逃げる時、このかめを埋めていったのだ」と伝えられ、中には一文銭がたくさん入っていた。その一文銭を産土さまである赤田天満宮に納めたり、正月には門松にぶらさげたりしたという。

 また、年寄りは、猫が腹を病んで腰が立たなくなると、その一文銭を煮て、その汁に砂糖を入れて飲ませるとたちどころに治るという。

 

長慶天皇潜幸伝説

 上北郡六戸町西南部に鶴喰という集落がある。この集落の南方に小高い丘があり、地元の人々は、そこを天皇山と呼んでいる。それは南北朝時代に潜辛してきたといわれる長慶天皇にまつわる悲しい伝説に端を発している。

 長慶天皇とは、皇統第98代、南朝第三代の天皇であるが、実は、大正15年に専門家の調査によって即位が明らかにされるまで、その存在は歴史上に登場していなかったのである。また、いつ、どこで亡くなったのかも定かではなく、その辺の不確かさが伝説に一層、真実味を加えている。長慶天皇は弘和3年(1383年)南朝最後の天皇となる弟の後亀山天皇に譲位し、そのころはすでに弱まっていた。南朝の勢力を挽回するため、ひそかに東北地方へやって来たといわれている。そのため、天皇の御陵墓伝説が、東北地方には20カ所以上もあり、青森県内にもいくつか残っている。

 さて、県内における長慶天皇の伝説をいくつか訪ねてみると、三戸郡南部町には有末光塚という御陵墓が残っている。

 また、南部地方の名物「南部せんべい」にも長慶天皇潜幸伝説がかかわっていることは周知のことであろう。そのほか、津軽地方にも五所川原市の八幡宮や中津軽郡の龍田神社と紙漉沢、浪岡町にも有末光塚がある。

 六戸の天皇山には若宮八幡宮という神社があり、長慶天皇を祭神として祀っている。

 同神社の古文書によると、「奥州へ潜幸した長慶天皇は、根城南部氏を頼り、南朝の勢力をもり返そうと南部地方へやって来た。しかし、北朝方に知られたため、一旦、津軽地方へ逃れ、また、南部の六戸地方へ戻って来た」というのである。

 更に、六戸町中央に犬落瀬という地名がある。ここは長慶天皇が六戸郷の里に入った時、1匹の白い犬が里の川(相坂川)で溺死してしまい、天皇は、この犬を哀れみ、「犬落瀬の里」と命名したとも伝えられている。

 この川の南方に天皇山があり、中腹には三木の御神木(カツラ・ヒノキ・イチョウ)が天高くそびえている。そこに小さな谷間があり、御前水(天皇の水)がわき出ている。山の頂上には若宮八幡宮が鎮座し、天皇は、ここで村を見おろし、余生を送った。
 
 古文書によると「天皇崩御の際、7人の家来が殉死し、後の6人が天皇のため若宮八幡宮を建立し、まわりを囲むように館を建て、神社を見守りながら世を去った」という。

 この末裔が別当の田中家で、故田中長太郎は、先祖の伝承を信じ続け、天皇がこの山で亡くなったことを証明するため、山を掘ったことがあった。それは、この地下に天皇の廟が隠されており、副葬品や宝物も一緒に埋葬されていることを信じて疑わず、その発掘に執念を燃やしたのである。

 その天皇山の東の低い山には、天皇の愛馬を葬ったといわれる墓があり、馬の守護神(蒼前様)として信仰され、駒形神社が建立されている。

 この天皇山のふもとには、明光山月窓寺が鎮座している。本堂には天皇の位牌が安置され、長慶天皇潜辛をしのばせる。そして、この寺の菩提樹を中心に、烏帽子をかぶり回向する踊り念仏「鶏舞」も、天皇が都から伝えたのだと信じている地元の人もいる。

 このように、長慶天皇潜幸は信憑性に欠ける部分も多々あるが、と同時にまた、このように数多くの遺跡・説話が残っていることも、全く無視することもできず、これが伝説であり、伝承であるゆえんであろう。

 単なる伝説だからといって軽視してはならないだろう。その伝説の中にも当時の人々の生き方・考え方が内在しており、歴史的意義は非常に深いものがある。また、伝説の中にこそ歴史的事実が隠されていることもある。

 それゆえ、その土地に語り伝えられた伝説は、伝説として、連綿と後世に語り継いでいってほしいものである。

 都から遠く離れた奥州の、そのまた片すみの六戸という地で、人々の心に残り、崇拝されてきた長慶天皇。そして、その伝説。そこには、歴史的事実を超えた、永遠のロマンがあるように思えてならないのである。

 

長谷のいたこ塚

 長谷公民館の隣の低地には、昔、馬が死ねはそこに埋葬したという「馬捨て場」があった。その中に「いたこ塚」があり、樹齢300年以もある大杉がそびえ立っている。いたこ塚は、長谷に住んでいた巫子を葬った場所だといわれ「虫歯の神さま」として崇拝ぜれている。歯が痛くなると、豆を炒って「この豆が大きくなるまで痛くなりませんように」と祈れば、ピクリと痛みがやむという。

 

通目木(づめき)の檜

 昔、八戸から市川を通り七戸に行く途中に、大きな檜がそびえ立っていた。旅人たちは、その大檜を目じるしに歩き、そこでひと休みしたという。ちょうどそこが通り目の木なので通目木という地名になったという。

 そこに檜を植えた人は、下北田名部の人で、ほかにも栃の木を植えたという。檜は大木となり、地元の人々に御神木として崇拝されていたが、この木は売ると高く値がつくと考えた男が、檜を切り壊し、売却してしまった。すると、その男は、数日後に急死してしまったという。人々は、檜を伐採したたたりだといって、おそれたという。現在その切り株だけが残り、その付近には天明の大飢饉の際、餓死した人を供養したという石が建っている。

 

影沼

 折茂新田に影沼と呼ばれている場所がある。今は、その沼はないが、昔この沼は大きく、底が深く、底なし沼だともいわれた。その岸辺には老柳が茂っており、おばけが出そうな薄暗い場所であった。

 そして、岸辺を通る者がいて、もしその者の影が沼面に映ったならば、その者の生命は沼に吸い込まれ、死んでしまうという恐ろしい場所であった。したがって、そこを通る時には影が映らないように夜間に通ればよいというが、夜は夜で、沼に吸い込まれた者たちの霊が出たり、泣き叫ぶ声も聞こえたという。

 『藤坂村誌』には、この影沼が紹介されており、次のように記されている。「この近くでは六戸の折茂にも影を水にうつせば死ぬと傅へる影沼といふのがある。馬が主であるといふから、鹿毛沼であったのであらう。ここらはもと往昔木崎の牧の中に入ってゐた所だったのである」。

 

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