記事番号: 1-1922
公開日 2022年05月11日
町では、平成6年11月に兄弟のまち宣言を行い、青森県南から岩手県北にまたがる「戸」のつく市町村と交流しています。
一説には、弘仁年間(810〜824年)、文室綿麻呂 (ふんやのわたまろ)が蝦夷平定後、この地に残した守備兵の駐屯地(柵子)から発展した村落に由来するという。
一戸から七戸までがほぼ一日の行程間隔に並んでいることや、一郷を形成する戸主に戸番をつけ、これが柵子を置くときも適用されたとみられることが根拠になっている。
これに対し、鎌倉説は、源頼朝が牧馬政策の必要性から糖部群を置き、多くのご家人を地頭に任命したことに始まるとする。その一人、南部氏は馬産地の甲斐出身で、牧の経営に手腕を発揮したという。南部氏は、糖部群を九つの部(戸)に分け、一部(戸)ごとに七つの村と一つの牧場を置き、九戸を東西南北四つの門に分属させた(九ヶ部四門の制)といわれてきたが、最近では、九戸と四門が併存していたという説が有力である。
戸の兄弟のまち
※各市村町のホームページのトップページにリンクしています。
「戸」のいわれ
この地域特有の一から九まである「戸」のつく地名(現在四戸はない)は、その起源が平安時代とも鎌倉時代ともいわれ、しかも馬と関係がある。一説には、弘仁年間(810〜824年)、文室綿麻呂 (ふんやのわたまろ)が蝦夷平定後、この地に残した守備兵の駐屯地(柵子)から発展した村落に由来するという。
一戸から七戸までがほぼ一日の行程間隔に並んでいることや、一郷を形成する戸主に戸番をつけ、これが柵子を置くときも適用されたとみられることが根拠になっている。
これに対し、鎌倉説は、源頼朝が牧馬政策の必要性から糖部群を置き、多くのご家人を地頭に任命したことに始まるとする。その一人、南部氏は馬産地の甲斐出身で、牧の経営に手腕を発揮したという。南部氏は、糖部群を九つの部(戸)に分け、一部(戸)ごとに七つの村と一つの牧場を置き、九戸を東西南北四つの門に分属させた(九ヶ部四門の制)といわれてきたが、最近では、九戸と四門が併存していたという説が有力である。
「戸」の兄弟のまち活動
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[平成24年11月に二戸市で行われた戸のサミット] |
「戸」のじまん市
六戸町を会場にまちおこしイベント「メイプルタウンフェスタ」が開催され、一戸〜九戸の各市町村の特産品を一堂に集めた「戸のじまん市」を開催しています。[各市町村のじまんの一品が並び、多くの来場者でにぎわう] |
この記事に関するお問い合わせ
総務課
住所:青森県上北郡六戸町大字犬落瀬字前谷地60
TEL:0176-55-3111
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