記事番号: 1-1971
公開日 2022年05月11日
位置
面積 | 83.89平方キロメートル |
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位置 | 東経141度20分、北緯40度36分 |
距離 | 東西10キロメートル 南北15キロメートル |
海抜 | 高89メートル 低14メートル |
地勢
南部台岳地帯の一部を形成している洪積層の大地と、細長い洪積平野とからなり、目立った高地・山岳はありません。水系の主なものは、源を十和田湖に発する奥入瀬川で、町の中央よりやや南部を東西に流れており、その流域には水田が広がっています。気候
北東北にありながら、雪が比較的少なく、年間を通じて穏やかな気候です。しかし、夏期において偏東風(ヤマセ)といわれる冷たい風が太平洋側から吹きつけ、農作物の生育に影響を与えることもあります。人口
人口 10,974人
男性 5,351人
女性 5,623人
世帯数4,524世帯
(令和2年5月末現在)
六戸町の人口は、昭和35年を頂点にしてゆるやかな減少傾向をたどってきました。これは、出生数の低下に加え、過去数度にわたる好景気に都市部への流出が進んだこと、流出によって生産年齢人口とともに年少人口も低下したことなどに起因していると考えられます。この間では、小松ヶ丘ニュータウンが完成したことなどにより、昭和55年から昭和60年にかけて一時的に人口増となっていただけでしたが、近年では子育て支援政策や定住促進政策などの効果により、平成24年度は一転して人口が増加しています。
平成2年の国勢調査より、老年人口が年少人口を超え、本町においても少子高齢化が数字上においても明らかになりました。直近の平成22年の国勢調査では、0〜14歳は1,283人、15〜64歳は6,029人、65歳以上は2,921人となっており、少子高齢化に着々と進んでおります。
また、世帯数は統計調査を開始してから増加傾向にあり、1世帯あたりの人数は3人を下回り、少子高齢化に加え核家族化の進行も明らかとなっています。
沿革
六戸という地名は、村をさしたものではなく、鎌倉時代、平泉の藤原氏が討たれたとき南部光行公は征伐の大功によって源頼朝より糠部五郡(青森県南部と岩手県北部)を賜り、軍馬育成のため九ヶ戸四門制に分け一つの戸に一場を設けたとされる説と、それ以前兵站基地として戦略の都合上つけたとされる説とがあります。いずれにせよ、奥入瀬川流域一帯を”六戸”と称しました。
藩政時代は、南部(盛岡)藩の統治下にあり五戸代官所轄となっていました。その後七戸藩に属し、明治4年廃藩置県により、当初七戸県、続いて弘前県、10月には青森県に統一され、さらに、明治6年の大小区制、同11年の郡制施行、明治22年市町村制施行により、折茂村、柳町村、小平村、鶴喰村、犬落瀬村、上吉田村、下吉田村の7ヶ村が合併して六戸村となりました。
その後、昭和32年10月町政を布いて六戸町と改められ、平成29年10月には、町制施行60周年を迎え、現在に至っています。
(六戸町史より)
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